電脳化(2)

昨日電脳化について記事を書いた。
最初は、すごく変で気持ち悪い事を感じたつもりで書いたのだけれど、
途中からすごく陳腐というかあたりまえな議論になった。

「電脳化の切り口として、記憶の共有化と見るとすれば」、そんなものは
ネットが生まれる前、いわば瓦版があったころから行われているわけで・・・。

ただ、その規模を把握できないくらい大きいものにし、ついていけないほど速くしたのは
コンピュータでありネットワーク技術である。
そしてもう一ついうとすれば、発信者が増えた、ということ。

しがない学生である僕ですら、このように発信の場を形式的とはいえ持つ事ができる。
(このブログは発信を趣としているわけではないが。完全に外部記憶。)
文字通り老若男女にその機会は均等に与えられ、利用されている。

そこに一種の気持ち悪さを感じたのかもしれない。

たとえば、mixi。
小学校を卒業して以来、一回もあっていない友人とマイミクになる。
ところが、その友人の近況は彼の「日記」を通じてある種の情報として僕に与えられる。
そして同じマイミクである限り、その情報には差がない。
毎日顔を合わせる人だろうが、全く顔をしらない人であろうが、「日記」を通じて与えられる情報は平等だ。

これは確かに気持ち悪い。
こんなことは、従来の概念では考えられない事だったのだ。

そして、このような情報・記憶が「完全な」電脳化によって、「完全に」共有されたとするとどうなるのだろう。

つづく。