Monthly Archives: October 2009

電脳化(2)

昨日電脳化について記事を書いた。
最初は、すごく変で気持ち悪い事を感じたつもりで書いたのだけれど、
途中からすごく陳腐というかあたりまえな議論になった。

「電脳化の切り口として、記憶の共有化と見るとすれば」、そんなものは
ネットが生まれる前、いわば瓦版があったころから行われているわけで・・・。

ただ、その規模を把握できないくらい大きいものにし、ついていけないほど速くしたのは
コンピュータでありネットワーク技術である。
そしてもう一ついうとすれば、発信者が増えた、ということ。

しがない学生である僕ですら、このように発信の場を形式的とはいえ持つ事ができる。
(このブログは発信を趣としているわけではないが。完全に外部記憶。)
文字通り老若男女にその機会は均等に与えられ、利用されている。

そこに一種の気持ち悪さを感じたのかもしれない。

たとえば、mixi。
小学校を卒業して以来、一回もあっていない友人とマイミクになる。
ところが、その友人の近況は彼の「日記」を通じてある種の情報として僕に与えられる。
そして同じマイミクである限り、その情報には差がない。
毎日顔を合わせる人だろうが、全く顔をしらない人であろうが、「日記」を通じて与えられる情報は平等だ。

これは確かに気持ち悪い。
こんなことは、従来の概念では考えられない事だったのだ。

そして、このような情報・記憶が「完全な」電脳化によって、「完全に」共有されたとするとどうなるのだろう。

つづく。

電脳化

電脳化。
文字通りとらえれば、「人間の脳を電気電子技術を用いて人工的な脳に置き換えること」である。
結局人間の神経信号というのは電気信号に置き換えることができて、
それの究極形態が電脳化である。形式的にはそれだけのこと。

現在人間が持っている技術でこの明確な電脳化というものはなされていない。
ブレインマシンインターフェースの分野で、脳波からコンピュータで操作するということくらいはできているようだけれど。

僕が議論したいのは、ここでいう電脳化が実現したときに何が起こるのか、ということ。
わかりやすく考えれば、人間の脳がPCになるという事かもしれない。

電脳には通信のモジュールが内蔵され、即時にネット上の情報にアクセスし、理解する事ができる。
現在でも携帯電話で同様の事が可能だと考えるかもしれない。しかし、「そんなものではない」のだ。
即時である。
思ったその瞬間にその情報にアクセスできる。

そしてもっと重要なのは、人間はネットという1つの外部記憶を完全に共有するという事である。
電脳化が実現できる時代になれば、人間の体をほぼすべて人工物に置き換える事は可能であろう。
そして、記憶も共有する。

個体の差異があるとするならば、それは攻殻機動隊でいうところのゴーストである。
そのゴーストもどれだけ差を持ったものになるのだろう。
人間の考え方、感じ方というのは経験や記憶に結びつけられて形成されるものである。
その経験や記憶が完全に共有されたら、もはやゴーストの差異などほとんどなくなるかもしれない。

そして、人類は緩やかな死を迎える。
草薙素子はトグサにたいしてこんな台詞を言う。

「同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。 組織も人間も同じ。特殊化の果てにあるのは緩やかな死…。それだけよ。」

この台詞は、完全生身の人間であるトグサが少佐に自分のような者が9課にいていいのか、といった事を 聞いた返しの台詞だったと思うが、まさにそのとおりである。画一化されたシステム、差異のない生命、それは緩やかな死へ向かう。

さて、この電脳化。
実はもう始まっているのかもしれない。

たとえばtwitter。
仲の良い人をfollowする。followされる。
顔も知らない人をfollowする。followされる。
ある人をfollowしている人達にとって、followされている人から与えられる情報は画一的、均質である。
それが何十人、何百人となったとき、それらの人々のその人に関する記憶は均一化される。

というか、書いてて思ったけど、これはtwitterに限らないな。

ネットを使っている時点ですでに記憶の共有化はそれ以前とは比べ物にならない量・スピードで行われている。

電脳化の切り口として、記憶の共有化と見るとすれば
まちがいなくそれは行われているし、気持ちが悪い気がする。
そして人類は緩やかな死へ向かい歩みを進めているのかもしれない。

メディアとコンテンツ

メディア。

人間はつねにメディアに囲まれているけれども、つかみ所のないもの。
辞書的な意味でいうと、

media

ということらしい。広辞苑より抜粋。もっとも今僕が使っている広辞苑は第二版と古いので、最新版ではかわっているかもしれない。
広辞苑にはもっと事細かに書いてあるのかと思ったら、とてもあっさりしていて拍子抜けだった。
エッセンスだけを抜き出した、という所だろうか。

僕が持っていたイメージとして、またメディアコンテンツの研究をしているものとして、何かものを伝える・コミュニケーションの媒介となるものを特にメディアと呼ぶ感覚がある。
たとえば、4大メディアというとテレビ、ラジオ、新聞、書籍だが、これらはいわゆるマスコミュニケーションである。つまり、多くの人々のためのコミュニケーションの媒介・媒体としてのメディアである。

他にもメディアというとCDであったりDVDであったり、最近でいうならばメモリーカード、メモリースティックなども挙げられる。これらのメディアというのはコミュニケーションというよりかは、データ記憶やデータを取り扱う、運ぶための媒介・媒体という感覚で使われているのであろう。

昔から、この2つの感覚にずれを感じてしまうというか、同じ「メディア」という言葉で指し示されるのが不思議でしょうがなかった。
自分の中で、マスコミとメモリースティックが結びつかなかった。最近はようやくなれてきた?けど。

このメディアということばをGoolgeで検索してみると一番最初にWikipediaの「メディア(媒体)」というページがあがる。 Wikipediaを大多数の人々の解釈を言語化したものとして、読むとするとそこでの定義はこうだ。

メディア (media) は、情報の記録、伝達、保管などに用いられる物や装置。媒体(ばいたい)、情報媒体などと訳されることもある。記録・保管のための媒体とコミュニケーションのための媒体とに大別することができるが、両者には重なりがある。

ああ、ここに書いてあった。
つまり、ここでの定義でいう前者がメモリースティック、「コミュニケーションのための媒体」というのがテレビ、ということで、「両者には重なりがある」らしい。

ふむふむ。
いずれにしても、メディアという言葉自体が曖昧で明確に定義されてはいない。
僕は、メディアには階層があってそれぞれのレイヤーで果たすべき役割が違うのではないかと考えている。

(つづく)

どうでもいいことなのだけれど、媒質というと食塩水の水を思い浮かべてしまう。
この広辞苑のシンプルな定義からいけば、この水もメディアだよなぁ。